昭和43年7月11日 朝の御理解 【記入者:五徳】
御理解第七十節
『人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。』
昨日の、おーご理解の中にも、万物の霊長というのが出ておりましたね。人間は万物の霊長であるから、死したる後、神に祭られ、神になることを楽しみに信心せよと。万物の霊長であるから、とこう言うておられる。ね、ここでも、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんと、こう。
これは、もう人間だけでしょうね、例えばこういうふうに教えられれば、それを、万物を見る気になり、万物を見て、道理を悟れれるのは、人間だけです。
けれども、万物の霊長でありながら、万物を見て道理を分かろうとしない。ね、道理に合う生活じゃなくて、えー道理に反した生活をして、そして難行しておる。道理に合うた生きかた、ね、生活がなからなければ、霊長としての値打ちもないが、霊長としての、おー、幸せを受けることもできない。
うーん、何を見ても、聞いても、うんー、その、おー道理というものを、お、感ずる。いわゆる自然を観察するという。そこには、もう、(?生粋によも)言われる、( ? )うんー、営みというかね、がそれぞれにあり、んー、寸分の間違いもない、いー天地の働きの中に、えー、天地の、おー、中のこと、天地の内に起きて来ること、がなされ続けておる。
その中にある人間が、そういう道理に、を悟り、道理に基づいた生活ができるなら、そこに、いー、と言うか、お道では、今月今日とか、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうがと、見易う信心をするがよいといったような、あー、お言葉やら御教えがございますけれども、今月今日が、ねぇ、えーあくせきしなくても立ち行くようになっており、あくせきせんでも、ね、立ち行くおかげが受けられるのが、えー、とりわけ人間の上にだけではないけれども、ね、まして万物の霊長と言われるくらいの人間のことですから、なおさらそのところのおはからいというか、お働きを頂くことができるのですけれども、それを私どもの、いわゆる我情とか、ね、我欲といったようなもので、それをたがい違いになるような、言わばその日が立ち行かんというような、ことになってしまう。
ですから私どもが、そこに難儀を感じたり、立ち行かなかったり、不安である時にはですね、そうした万物見て道理に合う信心、ね、道理に合う生き方のできいないことを、まず反省しなければいけん。ね、同時に、私はそこんところを、謙虚に詫びていくということが大事だとこう。
天地の親神様は、あー、植物、動物、お、お、ありとあらゆる、言うなら生きとし生けるものの上に、いー、その繁盛を願われ、または、その立ち行きを願われ、そのことを知る知らずに問わず、おかげを限りなく下さってある。
だから、人間の上にだけ下さらないはずがないのだけれども、人間が、中々、んー何ち言うでしょうかね、んー知恵を持っておるばかりにとでも申しましょうかね、自分で生きようとする。自分で我が身勝手なことをする。いわゆる実意をかいだ生活をする。ね、丁寧さがない。
私はもう、そういうような実意とか、丁寧とか、そういうような、あーものがですね、ほんとに、動植物に、見習わなければならないことがたくさんあると思うんです。ね。
そこで、私どもは、ね、実意な生活、実意丁寧神信心と言われる、実意丁寧神信心をモットウとしたところの生き方。ね、そこには、えー、道理に合うところの生活が、自ずとできてくる。そこで私どもの一番欠けておるもの、難儀を余儀なくした、されなければならないもとというのが、そうした道理の上に立った生活じゃなくて、実意をかいだところの生活。ね、実意丁寧な生活ではない、その反対な生活をするところに不幸せがあると。
まず第一に、人間はわがままである。同時に、横着である。そこのところがですね、えー、万物を見てまいりますと、もう手本になることがたくさんあります。いい加減なものがない。いわゆる自然に対して、非常に忠実である。
自然の恩恵を受けながら、あー生きていく、例えば小動物なんか、を見ておると、もう実に実意丁寧である。ねぇ。わがままがない。横着がない。神様のお働きを十分に身に受けておる。いわゆる神の栄光をさんさんと受けて、楽しく、もうききとして生活をしておるように見えるでしょう。例えば、小鳥一つを見ましても、ね。
そういう、私どもは、あー忠実さをかいだ生活、ね。自然に対するところの、実意をかいだところの生活。丁寧さを失っておる生活。ね。
昨夜も、月次祭も終わりました後に、ちょうど、まだ皆さん、昨日の朝のご理解を事務所で頂いておられましたが、私も出てまいりまして、えーちょうど高橋さんがおりましたから、高橋さんをつかまえて、えー今晩の、うんー昨日の言葉に、今晩の、えーお話の中から、どこをどういうふうに頂かなければならんのか、今晩の、おー御教えは、あー今まで頂いたことのなかった御教えである。
どこを焦点に頂いたらよいかといったようなことを、また改めて検討して、もういっぺん明日、よくお話をいた、あのうご理解を頂きなおそうと、とまぁ言うて休ませて頂いたんですけれども、私どもが稽古をすると、信心の稽古をするということは、うんー、日常生活の、おー中に、ね、道理にあった生活、ね、その生活ができることのために、いー信心の稽古をする。
それを、信心の、おー稽古に通うてくるのではなくて、ただ自分の我情我欲を満たすために、お広前参りをする。もうそこからすでに、いーだいたい間違いがある。
そりゃ皆がそうですけれども、信心をさして頂く者が、いわゆる信心者がです、ねぇ、そういうおかげに囚われてしまった、信心であるならば、もうそれは、あー、信心生活ではない、ね。どこまでも、信心の稽古に通うてくると。しかもその、稽古が日常生活の中に、えー続けられると。
うん、そこから、なるほど道理に合う信心というのが、ね、生き方というのが、どのように有り難いものかということが分かり、もう明日のことではない、明後日のことではない、もう今月今日が立ち行くおかげ。いわゆる今月今日が立ち行くおかげを願うということは、うー、今月今日が立ち行くんだと、ね、立ち行かせて頂くんだという、ね、安心とでも申しましょうかね、それが頂けれるところまで、明日はわからない、けれども、今月今日、は、立ち行かせて頂いておるのであり、立ち行くのだと、ね。
安心のできれるところまでは信心を進めたい。でないと、明日のことが心配である。取り越し苦労しなければならん。今月今日の有り難いことも分かってるけれども、明日やら明後日やら思うて取り越し苦労するところに、その有り難さというものがなくなってしまう。
今月今日が立ち行くということ、の有り難さというものを、ね、いっぱいに感じさしてもらおう、ね。そこには、私は、明日の立ち行きがまた、約束される、心の上に安心が生まれる。
今月今日を、ね、実意丁寧、例えば難儀を感ずるときには、ね、道理にあう生活、その破綻の、おー合わぬ生活。ね、いわゆる破綻の生活、ね、それを破った生活。ね、そういうことを心から謙虚にお詫びをさして頂いて、ね、そこに詫びれば許してやりたいのが親心と仰るような、そこんところに、ね、何とはなしに立ち行くおかげが受けられる。
その日その日が立ち行くおかげ、今月今日で立ち行くおかげ、そこには、自然に逆らわない、ねぇ、取り分けて、我情我欲をせんで済む、今日一日が立ち行ったことを有り難いと、神恩報謝の生活をするとさせて頂くということ、ね。
そういう生活が繰り返されていくときにです、・・・
なるほど神様のお生かしを、受けておる。神様のご守護の中にあるという実感が伴うてくる。そこに、先のことを心配せんで済むおかげ、・・・
( ? )つかみ取りの気になるな、とこう仰るが、ね、私どもが信心していて、がばーっとおかげを頂こうと。いっぺんにおかげを頂こうと。特別の奇跡を頂こうと。特別に不思議な働きを頂こうと。そういうような我情我欲のある間は、おかげを受けられない。
今日私が申しますように、人間は万物の霊長であるから、万物を見て、ね、道理に合う生活を、ね、その日その日の中に、今月今日の立ち行きの中に、ね、横着のない、わがままのない、ね、実意丁寧な生活さして頂くうちに、なるほど神様が、私どもがバタバタしなくても、ちゃんと立ち行きのおかげを下さるものだと。ご守護を下さるものだと。
ここんところが起点となり、そこんところに、いわゆる生活の、おー起点が、あーあって、そこんところを分からして頂く。ね。
それが基礎であるところの、おー信心。・・・
取り越し苦労をせんで済む、信心。今日一日のことを願い、今日一日の立ち行きをお礼を申し上げるこ、信心、ね。今月今日で願っていく信心。その日その日が立ち行けばよい信心。ね。そういう中にでないと、私は、今日私が申します、万物の霊長でありましても、ね、万物を見て道理に合うという、その万物を見ても、ね、なるほど、こういう道理のものだと。ね。
もちろん、神様のおかげを頂かなければ立ち行かないということ。神様のおかげを頂いていけば、日々が、ね、すべての上に立ち行くことができるという体験。ね、そこに、信心者の、いわゆる紳恩奉謝の生活がある。そういう生活が、基盤、基礎になっての繁盛である。ね。
夕べ、えー、久富正義さんが、前講を勤めましたときに話しておりましたように、自分でも、やはりああいう、うーまぁ事業をいたしておりますから、ね、誰でも、まぁ、財産を作りたいという願いは持っとります。けれども、十何年間に得たもの、まぁあの人の生き方なんかは、まぁ、あーある程度にですね、誰が、まぁ見ても、実意丁寧な人でもあるし、実意丁寧な生き方をしておる。ねぇ。それでもやはり、我情我欲がないじゃないから、ね、できるだけ繁盛のおかげを頂いて、お金も、まぁ、あー残したいという願いを持っておったに違いない。
けれども、十何年間信心生活をさして頂く中に分かったことは、昨日申しま、昨日申しておりましたように、ね、どんなにあくせきしておりましてもね、信心しておれば、ね、そんなに儲かるもんじゃないと。もう神様のおかげを頂いて、大きくなっていくもんだ、神様のおかげを頂いて、増えていくものでなからなければいけないということを、まぁ悟らして頂いた、というようなことを話していたでしょう。ねぇ。
なるほど、今度請け負うたので、いくらいくら儲かると。計算がちゃんとできている。ところが、やはり転変地変というのがある、ねぇ。特にああいう土木関係の仕事をしておりますから、ねぇ、雨が降っちゃならん時に降ったり、ねぇ。ここでは雨がほしいというところに、お日照りが続いたり、ね、そして、そろばんに合わなくなってくる。ねぇ。
なるほど、儲かることもあるけれども、もう、その儲かった向こうには、今度は出さなければならない問題がある。それを十何年間の間に、かかってですね、これは信心さして頂く者は、もう神様がね、段々おかげを頂かせてくださる。ね、そのおかげを奉れるほかにはない。
まぁ、やや人間は万物の霊長としての、ね、万物を見て道理に合う信心をさして頂いておらなければ、ね、自分が十何年間、一生懸命やってみたけれども、たいして残るということはなか、ま日々が立ち行っておるというだけである。
ね、してみると、もっともっと、なら実意丁寧の信心を、ね、実意丁寧を身につけて、日々が立ち行けば、あら、有り難い、いや、日々立ち行くことに対するところの、ね、奉謝の生活が、もっともっとできるおかげを願わして頂くが本当だということをです、分かって、ね。
私は、信心が十年と続いたら、われと和賀心を奉れと仰るような御教えはですね、そういうようなことだとこう思うです。今月今日が立ち行くということを、十二分にお礼が言えれる生活。十年の間にこれだけ儲かった、これだけ、例えば特別なことができたというのではなく、信心して儲けだそうと、といったようなものではなく、信心させて頂いて実意な生活、道理に合う生活をさして頂こうと。そこに、信心の稽古さして頂く者の焦点はそこでなからなきゃいけん。
信心して儲けだそうと。これで儲けだすはずがなか。儲けだしたところで、それはね、もう不安定なものです。
ね、信心をさして頂いて、実意丁寧な生活、言わば、その日その日が立ち行くおかげ。今月今日で頼んでいく生活。そこには、今月今日が立ち行くという確信ができる。しかも自分ひとりではない。ね。
例えば、家族なら家族の者のうえに、その日その日の立ち行きができれるおかげをですね、確信する、安心できる。あくせきしないでも、ね、これは人間だけではない、ね、動植物に至るまでが、お生かしのおかげを頂いて、ああした楽しい、または、営々とした、あー営みというものをなしていっておるのであるか。まして、人間万物の霊長であるからそれができんはずがない。できないというのは、行き詰まりというのは、自分が実意丁寧をかいだ、ね、生活の現れが、行き詰まりになっておるんだと悟らしてもろうたが。ねぇ。
行き詰まりを挽回しようという前に、まず、その、ね、今月今日を十二分にお生かしのおかげを頂いておること、今月今日が立ち行ったこと、明日のご飯はない、心配はしない。ね、今日が立ち行ったのであるから、明日もまた立ち行くことに間違いはないという確信。ね、そういう日々が、まず、できていくようなおかげ。ね、そういう信心が十年続いてご覧なさい。確かに、われと和賀心が奉れれる。ね、いわゆる、夕べのご理解で申しますならば、いよいよ信心が生命になってくるのです。または、生命以上になってくるのです。ね。
私は、特別のおかげ、ご神徳とこういうことを申しますね。御神徳を受けられた方達が、ん、ね、人が目を見張るようなおかげを現していかれる。のは、そういう例えば、これは十年というて決まっとることではないでしょうけれども、そういう実意丁寧な神信心。いうなら、明日のことをではない、今月今日があることをです、ね、しかも神様のあくせきとしてじゃなくて、神様のおかげで立ち行くんだという確信がです、十年続いたら、馬鹿でもちょいでも、私は、有り難くなるだろうと思うですね。
ね。その有り難いという心。それが何を、十年後なら十年後に分からせるかというと、信心は、ね、切って切れるものでもないということが分かると同時にです、信心は私の生命であり、いや、私の信心、信心は、生命以上なものであるということが分かってくる。
ね、これからはですね、もう無尽蔵、限りがない、おかげ。これは私の、おー過去を振り返ってもそうです。ね。家族、十人からの家族を用意して、さぁ、今日、今晩までは食べることができましたけども、明日は、もう炊くお米がないですよというよ、ようなことが、これはもうしばしばだった。
けれどもおまえ、今日は、今日だけは立ち行ったじゃないか。思うてみると、不思議な不思議な働きの中に、今日一日はおかげで、腹をおさんですんだじゃないか。さぁさぁ、今夜はもう休まして頂こう、ね、今日一日立ち行ったことをお礼を申し上げていきよりゃ明日は明日で、また明日の風が吹くぞと、ね。
そこには、明日は明日で、また、ね、子供達にでも、年寄りにでも、私どもの、ね、足らなかったということはない、それもあくせきとしてそこにかり行った、そこにもらい行ったということもない、ほんとになるほど神様が、お生かしを下さってあるんだなぁ、という実感をね、家族中の者が味わわせて頂いて、修行さして頂いた、言うならば、まぁ十年間。これはここに十年間、ということは、ね、それだけの、まぁそういう日々、そういう蓄積する。ねぇ。
そこに、いよいよ信心が有り難いものになってき、ね、いよいよ信心は生命であり、いや生命以上のものであると、分からして頂くようにならせて頂いたころにはです、ね、それこそ、思いもかけない働きが、思いもかけないおかげが展開してきた。ね。いわば、その日暮らし。
ほんとにこげな寂しいことはなか。もう毎日毎日がその日暮し。不安な不安でたまらん生活。一人で病人にどんなったらどうするじゃろうか。さぁ子供のこと言いよるけん嫁御さん呼ぶ時にはどうするじゃろうか、といったような不安はさらさらない。
ね、今月今日が立ち行ったのであるから、そん時はそん時で神様がおかげを下さるという確信がです、そういう日々の実意丁寧の信心の中から、今日がこうやって立ち行ったという、その、もうその体験というものがですね、積み重ねられていくところからです、ね、実意丁寧神信心というのがい、どんなに有り難いものであるかという信心生活が続けられ、ね、そして、十年したらわれと和賀心を奉れと仰るように、ほんとに自分の心が拝みたいように有り難うなってくる。
ね、そのころから、起きてくるところの、神様の働き。言うなら、万物の霊長としてのです、値打ちをいよいよ発揮できれる生活、ね。同時に、神様の徳を十分に、世の中に輝かして行けれる生活、ね。そういう、満ち溢れた喜びの中にですね、満ち溢れたおかげが約束されるのが、私はお道の信心だとこう思う。
ね。まず持って皆さんが、ここには信心の稽古に来るところ。おかげを頂くコツあいを頂いていくことも、それはいいでしょうけれどもです、それよりも、何よりもまして、私どもは、ね、自分のものにしていかなければならないのは、実意丁寧神信心の生活が、いよいよ身についていく生活、言うなら、わがままのない生活、横着のない生活、陰日なたのない生活、そういう中から約束されるもの、そういう中から確信ができてくるもの、なるほど、神様がご守護の中にあるんだなという実感がですね、必ず頂けれる。
それは、ね、ささやかなその日暮かもしれない、ね。けれども、神様のおかげでというものをです、私どもが感ずる。ね、そういう信心が十年続いたら、そしたら、確かにわれと和賀心が奉れれるおかげ、ね。そこから展開してくるおかげというのは、もうこれは限りがない。いわゆる、人間は万物の霊長であると仰る、万物の霊長としての値打ちを発揮して行けれる生活。ね。
いくら人間のそらをしとってもですよ、霊長としての値打ちを発揮できなかったら、そりゃ霊長とは言えないです。ね。
昨日の御理解につながる感じですけれども、昨日の御理解、ね、人間は万物の霊長であるから、ね、死したる後、神に祭られ、神になることを楽しみに信心。そこんところが頂けて、初めて、はあー、こういう生活をしてさえいきゃ神になれるんだと。神に向こうていっておるんだということが分かる。ね。
おかげを目指すのではなくて、実意丁寧の信心生活を目指しての稽古。ね、そこに私人に対するところの観察、も、自然とできてくるようになる。こういう例えて言うならば、虫けら一匹の上にでもこのように絶大なる神の働きというものが受けられるのであるから、まして人間の上におかげを下さらぬはずはない。頂けないのは、自分達が、ね、実意をかいでおるんだ。ね。
丁寧が足りないのだと、悟らしてもろうてです、ね、ここに不用意なことがあるとするならです、ね、過去においての実意丁寧のかけておった生活、真のない生活、ただ自分さえ良かればよいという生活、ね、いわゆる一旗組みの根性。もし一旗上げたところで、それは長く続くものではない。そういうところに、お互いがですね、突きあたる。
昨日ある方が、もう先生いよいよ行き詰まりました。先生、行き詰まったときにはどういう生き方になったら良いでしょうか、と言うけんで、回れ右すればよかよ、と私は申しました。
なして行き当たったっじゃろう。ならあんた行かれんめぇもん。なら、回れ右するっちゅうことはどげなこっですか。じゃああんたは、今何時に朝起きよんの、っち言うから、まぁ、七時か八時ごろ起きると言う。そんならまちっと早う起きる、ね、今までの八時のやったならば、もう六時か五時ごろ起きてきな、起きなさい。
晩な何時ごろ、晩な、あー、深夜の、あのテレビを、あれ見てから休むち言う。ならそれとは反対に、もう、夕ご飯食べてもう八時なら八時ごろ、早う休みなさい、もうテレビやら見らんで。
まぁ、回れ右をするということは、今までとは違った生活をすることなんだ。なして行き詰まっとるとじゃろうもん。もう押せども引けども、そりゃどうにもなか、ならんとじゃろうもん。もう人間の力じゃどうにもならん、とこう言うわけです。
ね、そんなら、そこから回れ右をしなさい。ね。回れ右をしなさいというその生活こそがです、ね、これからは実意丁寧な生活をしなさいということである。
確かに、ね、朝でであったなら早起きをする。ね。晩に夜更かしをしよったならば、早く起きる、早く休む。ね。それで、あのー、食べるとでん、なんでん、ふんなら食べよったもんな、もう、食べ、断食でもせにゃいかんでしょうかっち言うちから言われますから、そうて、そりゃほんなこつ言うなら、やっぱ今まで食べよったっじゃけ、そうそう反対ならばね。じゃ断食してみると、いよいよ食物の有り難さが分かろうね、っと言って申しましたことでした。
ね、そしてその有り難さが分かったら、食べることを許されたと思うてです、今まで3杯食べよったのが2杯というごたるふうでしていくと、いよいよ有り難いですねってこう、まぁ言ったことですけれども、笑い話じゃない、事実そうなんです。
ね、私の修行時代なんかは、私とし、生活はそうでした。食生活の、衣食住の生活がそうでした。今までは、もうそれこそ男のくせに、もうほんとに、この着物にはこんな帯て、この下駄、この草履というようにしとかなきゃ、気がすまじゃった。
ね、ですから、そういうわがまま勝手な生活をしてきたから、もう、いわゆる着たきりすずめ。もうこの夏、黒衣、一着でですね、一年間を過ごさして頂こうと、お詫びのしるしに。
もう私は、なかなか卑しん坊ですから、その、おーまぁおご馳走は、もう食べ飽くほど頂いて来たと、今まで。ね、ですから、お茶がゆさんを一日に一碗、ね、食べるなというわけにはいかんから、一碗というような生活が何年間続いた。いわゆる、回れ右の生活をしたわけなんですよ。ね。
そして、寝る時間を、を惜しむようにして信心の稽古をさしてもらい、人が助かることのために、一生懸命奉仕した。ね。これは、私が行き詰まったから、いわゆる回れ右の生活をした。これはまぁ一つの実例なんですよね。
どうぞ一つ、今日頂きます、人間は万物の霊長ずっと仰る。昨日もそのことでしたから、今日頂くところも、や、この万物の霊長というところを頂くのですよ。ですからお互い信心をさして頂いてです、万物の霊長として、その値打ちの発揮できれるおかげを頂かしてもらう。ね、そういうおかげを頂くためにです、ね、日々を、私は油断なく、実意丁寧、実意を欠くことのない丁寧の、おろそかになることのない生活を、目指さなければいけないと思うですね。
どうぞ